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ソウル旅行は景福宮から始まる。景福宮は韓国の体表的な建物です。これから一緒に回って見ましょう! 景福宮の慶会楼 国宝第224号である慶会楼は宮中で王が宴会を催したところでその建築美がとても秀でていてきれいだ。 | |
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勤政殿 景福宮の受朝正殿で文武百官の朝賀を始めとする国家の儀式を行い、外国の使臣を接見する法殿として太祖3年(1394)に創建された。その後壬辰倭乱の時、燃えてしまったのであるが、高宗4年(1867)に再建された。第2代目の定宗、第4代目の世宗、第6代目の端宗、第7代目の世祖、第9代目の成宗、第11代目の中宗、第13代目の明宗などの国王がここで即位した。 勤政殿は、上下の月台の上に2階をあげた巨大な建物である。内部は、上下の区切りがないため、広くて高い。 | |
| 中央に王様の座定なさったりしていた御座がある。 東行閣から南行閣に曲がりながら、二番目の間の柱の前に立って、ちょっと背を曲がった姿勢で眺めれば、勤政殿の凜々たる姿と軒の曲線が北岳山の流れる線と調和されて一つの旋律ができる。 | |
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勤政殿の天障 広い天井の中心部に宝蓋が設置された。長方形の枠をしてそこから多出目の小さい包作を多方式で上げて、その上に蓋板をおおって蓋板の下に二匹の黄竜が如意宝珠を中心に相争っているような姿を刻んだ。透刻されたこの彫刻品は一々を別々につけたものでありながらも精巧である。優れた木工芸の技術がよく表れている。 黄竜はうろこさえ一つ一つ細刻されている。雲と如意珠も同じである。これは人にみてもらう作品ではない。 | |
| 細刻が人の目で見えるはずがないか らである。むしろこれは神とのある疎通を目的にした対話と認めるのが妥当なのであろう。 |
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勤政殿の玉座 太宗と世宗は勤政殿で即位する。登極する時、王世子は冕服を着て濱殿で大宝を受け、端門に出て即位、群臣のお祝いを受ける。御座に座って初めのあいさつをもらう。こらが新しい王様としての最初の行事なのである。世宗は勤政殿の国の上老人たちを招いて養老宴を施したこともあった。また六鎮開拓の功のある将士たちのためにも宴を施したのである。君臣間の心の暖かさがこの御座にまだ残っているようである。高宗の時、再建されながらもこれも新たに作られた。 | |
| 工曹に所属した小木たちが心を込めて作り出した当代最高の作品である。日月の五屏が玉座の後に、天井にはダッチップがあり、玉座の前には宝欄と宝階が設置されている。 | |
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思政門 光化門、弘礼門、勤政門、思政門、思政殿、康寧殿が南北の子午線に従って建物が順に正しく配置された景福宮の建物の配置原則で、宮中の奥深い所に位置していて、東の方の万春殿、西の方の千秋殿と共に便殿一廓を成している。まわりには行閣などが設けられていてきちんとした長方形の庭を持っている。思政殿の後門に出ると、王の寝殿である康寧殿がある。太祖大王が景福宮が初めに経営した時に便殿の名は報平庁で あったが、世宗大王の時に思政殿と改称されたようである。 | |
| 壬辰倭乱の時に燃えたが、高宗4年(1867)に再建して現在の姿になった。 高い三段の台(三段に積み重ねた石)の上に建てた小規模の建物として、正面5間、側面3間で、内七包外五包で?包を構成した多包家である。 |
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千秋殿 思政殿の左右に規模と構成が同じ殿閣を建てて対称にして、東の方の家を万春殿、西の方の家を千秋殿と呼んだ。 万春殿と千秋殿は思政殿といっしょに壬辰倭乱の時に燃えたものを高宗4年(1867)に再建された。 世宗大王が集賢殿の学士たちと色々な新しい文物を創製する時、この殿閣をよく利用したので、韓国民族暢達の一つの産室になった。観天と測雨の機械を設けた欽敬閣・報漏閣などがこの千秋殿の西の方と北の方 | |
| の近い所に位置していた。また、文宗が1452年にこの殿閣で亡くなった場所である。 | |
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康寧殿 この建物は王の寝殿である。世宗15年(1433)に建物を拡大、改築したが、明宗8年(1553)に火災に見舞われ、さらに壬辰 倭乱の際に完全に焼失した。高宗4年に再建されたが。1876年に再び火災にあった。 1917年に昌徳宮の寝殿が焼失した際、再建の木材を調達するために、この建物は撤去された。現在の建物は1995年に復元された。 | |
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交泰殿 この建物は王妃の寝室である。正面9間、側面4間で中央には板の間を置き、左右はオンドルの部屋になっている。特に建物の東側の後面に庁と部屋を張り出し裏庭の峨嵋山とつなげたことが特異である。1920年に日本人の手によって撤去され、現在の建物は1995年に復元された。 | |
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慶会楼 景福宮を創建した時に太祖大王は西の方の湿地に池を作って慶会楼という楼閣を建てた。太宗12年(1412)には工曹判書の朴子青に池を広げて楼閣も大きく建てるように下命した。 多くの人々が池の中に大きな家を立てることに反対したが朴子青は結局完成した。朴子青は四角できちんとした島を長台石(建築用の長方形の石材)で護岸して慶会楼を立てて、石橋を三つ架設して陸と連結させた。四十八の石柱に竜を刻んで、池の中に二つの島をもっと作って堂州にした。 壬辰倭乱の時に燃えた慶会楼 | |
| の跡には石柱だけ残っていて、詩心の充満した人々が昔のことをここで懐 古した。高宗4年(1867)、景福宮の再建の時に慶会楼も重建されたが、昔のように石柱に竜を彫刻する荘厳は施せなかった。 池のまわりには石蓮池、蓮華台などの石造物とおろちの形象を刻んだ石漏槽があり、慶会楼の欄干と石橋の柱には色々な形象の獣などが彫刻されている。楼閣の建物としては慶会楼が韓国で一番規模が大きなものである。 |
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香遠亭 1867年に高宗が乾清宮を営んでいた時、彼はその南方に池を掘り、中央に島を作って香遠亭を建てた。それから、木で雲橋をを作り、それを酔香橋といって散歩を楽しんだ。香遠亭は普通2階であると言われているが、楼の下の構造まで合わせると3階になるわけである。また、平面が六角形なので、こういう建物はとしては唯一であり、手すりが外に設けられるなど、美しく飾られている。酔香橋は1953年改造する時まではずっと | |
| 香遠亭の北方に置かれていた。ところが韓国戦争の時に崩れた所を復旧さ せ、今の位置に新たに架設した。本来、橋の東には垣があった。そこに麟遊門という一角門があり、またその南方に鳳集門があって、池は一層こじんまりした情緒に包まれていた。 | |
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